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ひとつめのお話 [ジャスミン2020]


小さな木造の駅舎からはオレンジ色の夕日が海の彼方にまだ見えていて、
爽やかな風が頬を通り過ぎていった。

重たいリュックサックをおろし、
駅前の商店で買いたての缶ビールをあけ、一気にぐいと飲むと、
乾いた喉に幸福感が溢れていく。
そこへ、さっき買ったアンチョビとウインナーのパンをかじると、
どこか遠い地中海にある海辺のレストランで乾杯をしている気分になった。

続けてもうひとくち。
「あ、ジャガイモ!?」

パンに練り込まれたジャガイモの風味に思わず嬉しくなる。
冷えたビールでまた流し込んだ。


遠くからカンカンと踏み切りの音が聞こえてくる。

誰もいない駅舎の窓からは、夕日が静かに明かりを落としていく。
パンをかじったまま靴紐をほどいて足を放り投げた。
長崎に来て4日目。
歩きまわった足の重みも日に日に増していた。

ゆっくりと入ってきた小さな電車が駅に到着する。
古びた車両から一人、おばあさんが降りてきて、そのまま海岸沿いを歩いていった。

車掌さんが誰もいないホームに降り立ち、指差し、腕時計を確認する。
その仕事姿になんだか心地よさを感じて、私はしばらく見入っていた。

夕日に照らされたその横顔は影になってよくは見えない。

ごくり。
アンチョビを流し込んで、ふーっと息を吐く。
気持ちのよい風がまた駅舎を通り抜けた。

カンカンと次の踏み切りの音が少し遠くで鳴り始めた。

夕焼けがだんだんと色濃く、いつの間にか夜の始まりになっていて、一番星も出てきている。

二両編成の電車には二、三人の乗客しかいないようだった。
しばらく駅に停車をしていたが、車掌さんが乗り込み、車掌室の窓から身を乗り出して、ホームの前方を指差すと、
電車はゆっくりと発車した。

清潔な真っ白の半袖のシャツだけがよくよくと見えている。
と、そのとき、車内の明かりがつき、その走っていく横顔がはっきり映ると、私は、はっとした。

一気に鼓動が早くなる。
電車は構わずにどんどんスピードをあげていく。

待って!

そう、叫びたかったが声が出ない。
私は持っていたパンの紙袋を長椅子に投げ、靴下のまま走って階段を登りホームに出ると、走り出した電車を追うようにカメラのシャッターをできるだけ早くきった。

急に飛び出してきた人影に、驚いて身を乗り出しながらも、
彼は車両の行く手をすぐに向きなおしてしまう。

でも、私は何度も何度も、声を出す代わりにシャッターをきった。


電車はますますスピードをあげて走り、あっという間に見えなくなってしまった。

暗闇に消えた電車に、ひとつ息を吐く。
と、急に息が上がって、汗が吹き出してきた。
シャッターを切っている間、息を止めていたのかもしれない。

しばらく深呼吸をして呼吸を整える。

すっかり誰もいないホームには、波音だけが聞こえてくる。

私は、震える手でカメラのメモリを開き、撮った写真を確認した。
焦っていたからか、ピンぼけがはげしく何を撮っているのかわからないものが何枚か続いた。

途中から写真がくっきりしてきた。
フラッシュを炊いていたのだ。
自分ではいつフラッシュモードに切り替えたのか、全く覚えていなかったが、カメラマンの血が勝手にそうさせたのかもしれない。
あの一瞬で私は26回もシャッターを切っていた。

が、やはり手振れがひどい写真が続いた。
脇の締めが甘かったかと反省もでてくる。
写真を撮るのなんて随分やっていなかったのだ。
東京の出版社を退職したのはもうだいぶ前のことだった。牧之原にある実家に戻り、平日は鈑金工場で事務のパート、土日は実家の茶畑を手伝っていて意外に忙しい。
写真を撮る、そんな暇もあまりないのだった。
久々に、本当に久々に、この旅行に出る前の晩、押入れからカメラを引っ張り出してきたくらいだった。

メモリをおくる度、あまりのひどさにため息がでた。
辺りはもうすっかり日が沈んで真っ暗になっている。

カメラの明かりだけが怪しげに光っていた。


残り3枚、と諦めかけたそのとき、
メモリをおくる手が止まった。

同時に、どこから来たのかわからないほど大粒の涙がぼろぼろと零れてきた。

嬉しさと動揺の波が繰り返し打ち寄せて、自分の胸がドキドキと音を鳴らすのがわかった。

なんとか涙をぬぐいながら、真実を確かめるように、何度も何度もその写真を見返した。
そして、ぎゅとカメラを抱きしめる。


そこには、確かに、写っていたのだ。

 海風に真っ白のシャツが似合う、
あの車掌さんの横顔が。


7年前に亡くなった、恋人の横顔が…

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